はじめに
こんにちは!
きものかく勇です。
厳暑のみぎり、皆様いかがお過ごしでしょうか?
きものかく勇がございますここ愛知県豊橋市が「蚕都」と呼ばれているのをご存知ですか?
今回は、豊橋市が「蚕都」と呼ばれるようになった由来とその歴史をご紹介します!
「蚕都」って?
豊橋市ではかつて製糸が盛んに行われており、そのため蚕都と呼ばれるようになりました。
製糸とは蚕の繭から糸をとることでございます。
豊橋市はそんな製糸業の中でも、玉糸と呼ばれる製糸の生産に早々と成功し、明治中期から大正時代の末期まで多く生産しておりました。
明治時代から、日本政府が日本の近代化をはかるために全国に製糸工場を建て絹の生産を推し進めておりましたので製糸業自体はあまり珍しいものでもなかったのですが、この玉糸は製糸のなかでも一際生産が難しく、また強度の高いものであったため、玉糸の大量生産に成功した豊岡市は全国の製糸業のなかでも群を抜いて、その名を轟かせたのでございます。
その生産量は凄まじく、全国への輸出にとどまらず、明治時代にしてロシアへの海外輸出にも成功しておりました。
玉糸とは
通常、繭から製糸されたものを生糸と呼びます。
生糸は一般的な蚕の繭から作られたものですが、玉糸は一般的な蚕が作った繭と、二匹の蚕が一緒に作った繭、玉繭とを掛け合わせて作られています。
その為、糸に不均一に節ができることが特徴として挙げられます。
異なる種類の繭を製糸するためとても難しいのです。
玉糸で作られた織布は強度が高いので真綿などの原料になることもあります。
玉糸は安価で丈夫だったため昭和の初めごろまで、庶民の生活着や外出着としても人気でしたし、着物の強度を上げるため裏地に当てられたりもしました。
一時期は全国で生産されている玉糸の40%〜50%を愛知県豊橋市が占めていました。
しかし早くから玉糸の製品化に成功していた豊岡市の玉糸は高品質であったため、戦後の貧しい日本では、蚕都の玉糸は高級品として取引が行われたりもしました。
圧倒的な生産量とクオリティの高さが、数ある製紙工場のなかでも群を抜いて有名になった秘訣なのです。
製糸業を支えた女性たち
製紙工場では女工と呼ばれる女性たちが働いていました。
彼女たちは製紙工場のある地域の出身というわけではなく、多くは農業だけでは食べていくことができない地方の農村の貧しい若い女性たちです。
ほとんどが14歳から20歳ほどでした。
大規模な製紙工場を抱えていた豊橋市では、大正時代の終わりごろ、17000人ほどの女工が暮らしていました。
この数は当時の豊橋市の人口の25%を占めています。
それほど多くの女性たちが豊橋市に移り住んできたのです。
女工の労働環境は全く良いものではありませんでしたが、女性が自立していく手段が皆無だった当時では女工という仕事はとても革新的なものでした。
一日12時間の労働時間と、月に二日の休日でしたが、農村で暮らしていた頃に比べると、それでも労働時間が短い方だったようです。
また農村ではほとんど無給の状態で農業をしていたので、安定して給料が入ってくる製糸工場は魅力的だったのでしょう。
歩合制の工場では年収100円の女工がいたともいいます。
100円は当時、家を二軒建てられるほどの金額です。
製糸工場は日本の近代化を支えた存在ですが、製糸工場を支えたのは全国の若い女性たちだったのです。
いかがでしたか?
暑い季節ですから熱中症にお気をつけくださいね。
最後に
お振袖や成人式に関するご質問は何でも受け付けておりますので、お気軽に遊びに来てくださいね♪
スタッフ一同心よりお待ち申し上げております!
暑さも本格的になってまいりました。
お身体には気をつけてお過ごしください。
きものかく勇は、豊橋市・豊川市・田原市・新城市・蒲郡市・豊根村・東栄町・設楽町
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